和坂典英はオフィスチェアにドッシリと身を沈め、コーヒーを片手に眉間にしわを寄せていた。
もう片方の手でテーブルをドン!と叩くと今度は震えるように深く息を吐き続けた。一点を見つめ何かを思い詰めている。和坂は見るからにイライラを募らせていた。
和坂が働くコンサルティングファームでは上司から理不尽な要求を突きつけられること。顧客から激しいクレームを受けることがある。上手く対処できれば良いが、そのほとんどは対処が難しいものばかりだ。
それだけで済めば良いのだが、社内統制が乱れ、忙しさと混乱に拍車をかけている。あちこちで問題が露呈し、それぞれで上手くいかない苛立ちが立ち込めている。余計なトラブルまで増えてしまっているほどだ。
主任である和坂はおかげでここ数ヶ月、まともに過ごせた日などない。こんな調子が長い間続いているため、和坂は慢性的な頭痛を抱えていた。集中もすぐに途切れ、効率も悪い。日々の疲れから家でもすぐ不機嫌になる毎日である。
最悪の日常だ。和坂は常日頃そう思っていた。和坂もこの状況はどうにかしなくてはと、イライラしないように努めていた。だが、問題がいつも山のように和坂に降りかかってきて、苛立ちを抑えられずにいた。
どいつもこいつも好きなことばかり言いやがって。どうにかなっちまいそうだ!!
同僚は全て間に受けていたら身がもたない。クラゲになれ。とかなんとかかんとかと言ってきたが、はっきり言ってそんなことはあてにならない。それよりももっとマシなアドバイスをくれ。相手を黙らせるようなものを。
コーヒーを飲み、心を落ち着けようとするも憤慨する和坂の苛立ちは止まることがなかった。
「おい、和坂!この提案書どうなっているんだ!こんな指示した覚えはないぞ!」
「いい加減にしてくださいよ!あなたがこうしろと言ったのではないですか!」
この光景もいつもの日常だ。
ろくな解決策が見つからないまま、時だけが過ぎていったが、どういうわけか問題は一時収束した。
和坂は久しぶりに気持ちを落ち着かせることができた。それはとても心地の良いことであった。
これが続いてほしいものだ。
いや、是が非とも継続させなくてはならない。
そのためにももう怒らないぞ。まずは社内を円滑にしなくてはならないな。
そう、問題は収束した。かのように見えていた
だが、実際は収束したわけではなかった。
ただたんに問題に蓋をしていただけだったのだ。
そのため、問題はまたすぐ表面に出始めた。
またしても、顧客からのクレームが殺到し、社内から不協和音が流れ始めたのである。
和坂は理不尽な言い分を健気に耐えながら、自分との約束を守り続けた。
もうイライラしないんだ。何を言われても堪えるんだ。大丈夫、上手くできてる。
和坂は怒りを押し殺すように深いため息をつき、拳を握りしめた。
「まだ耐えられるぞ」
その矢先のことだった。
問題がさらに肥大し、社内全体のトラブルに発展した。この問題は和坂の上司が取り扱っていたが、さらに上層部からの抑圧にあろうことか上司は逃げ出した。
「私はこんな指示はした覚えがない。私は知らない。これは全て和坂の責任です!彼が独断でやったことです」
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ふざけるな!あんたがこの指示をしたんじゃないか!!私がこれで良いのかと確認したのに、あんたがこれでいくと言い通したんじゃないか!
あまりの理不尽さにイライラしないという約束も一気に吹き飛び、声を荒げそうになった。
その時だった。突然、同僚の言葉が頭の片隅から呼び起こされたのだ。
「クラゲのように波に逆らわずに流されてごらん?無理に受け止めようとするんじゃなくてさ。波だって受け止めようとすると辛いだろ?」
和坂は突如出てきたその言葉を信用し、真正面から怒りを受け止めるのではなく、流れるように心を泳がせてみた。結果、今までは反発していたため、怒りの応酬になっていたのだが、見事なまでに怒りは流れていった。耐えようとしたわけでもないので、怒りがとどまらず、あまり痛みも感じていなかった。
和坂は一度そう感じられるようになるとそれまでのことがとても馬鹿らしく思えた。
いったい自分は何をしていたのだろう。和坂は冷静に場と自分を眺めることが出来るようになっていた。
怒りに感情を左右されていたときにはクラゲの話は心に響かなかったが、怒る前では心に引っかかるほど鮮明だった。そして、それは効果抜群だった。
「やり直します」
和坂はそれだけ言うとすぐに自分の業務に戻っていった。
周りのみんなは言い返さない和坂の反応にキョトンとしていたが、和坂は平然としていた。
和坂が怒りに身を任せていた時は何日も怒り続けていた。
しかし、怒り続けていたところで何も良いことはなかった。怒りがいつまでも尾を引いているだけだ。
反対に流すと決めたら怒りは驚くほど早くなくなったのだ。
すると、精神的にもすごく楽になった。あまりの気楽さに今まで怒りに身を任せていた自分がバカらしく思えてきた。なぜこんなことを怒っていたのだろうと思えるほどだった。
一度冷静に対処することが出来ると今まで見えなかったものが急に見え始めるものだ。
和坂はある発見をした。
そうか、イライラすることって相手が悪いのかと思っていたけど、自分にも責任があったんだ。相手から何を言われようと自分がイライラしないようにすればいいことじゃないか。まさに、クラゲのようにふわふわするのは良い。これからは怒りは我慢して耐えるのではなく、さらりと流し続けよう。
社内の問題はまだ解決までに当分時間がかかりそうだったが、少なくとも和坂個人の問題は解決の糸口をたどり始めていた。
怒りに身を任せてしまうと何日も時には何週間、何年もそのことにとらわれ気にすることになる。だが、何を言われても受け止めるのではなく、受け流すように気にしないと努めると受け止める時よりダメージを小さく抑えることが出来る。
不都合が起きるとイライラはする。
しかし、そのあとが大事。まぁしゃあないか。そんなこともあるか。どうでもいいや。こういう緩い気構えが大事なのだ。実際相手が怒ってようと許していまいとそんなことは関係がない。
あなたの人生に大切なことは自分の心を整えること。相手から何を思われようとあなたの人生には関係がない。あなたに何の影響も与えない。それであれば、そのような人や出来事と付き合うことはやめてしまえばいい。
無理に受け止めることはやめよう。良いのだ。とことん受け流しても。
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